春によせて #Metoo #Withyou
数年かけて、ようやく明るみになりました、ご周知お願いします。
※リンク先の記事には凄惨な暴力の記述があり、フラッシュバックを起こす可能性があります。
ここまで、この加害男性のせいで、本当に沢山の女の人が被害に遭って、自分から命を断ちそうなところを、なんとか生きている。今回、彼女たちでなく、脚本家の港さんが前に立ってくれて本当によかった。それだけで、多少は、二次加害が防げるから。
この告発の前に、加害男性の映画に、脚本家の港さんがかかわってると知った時は、港さんもそちら側なのか? とすっごくショックだった。わたしは港さんの脚本が好きで、作品も観ていただいたこともあったから。でも、加害男性の映画、しかも性暴力に関する映画に港さんが関わっていると知って、港さんのこれまで書かれた言葉も嘘だったのだろうか? 港さんも、女を踏み躙るのが男の美徳だと思い込んでいる映像業界に染まっているのだろうか? と絶望した。でも、結果的に、港さんは違った。本当に、よかった。これでまだ、映画と作家と信じ続けることができるから。
わたしのメールフォルダにも、加害男性からのメールがある。事務所に所属していた20代前半の頃、マネージャーに行けと言われてワークショップに参加したからだ。変なワークショップだった。受講料は5000円だった。オーディション風で台詞を読まされるが、全く指導されない。参加者の中にいた顔見知りらしい男優のことを「こいつはすごいんだ」と褒めて、時間いっぱい、他の参加者を無視していた。ワークショップの後、マネージャーにしろと言われて御礼のメールを打ったら、返事が来た。その返事を読んだ瞬間、なんかヤバいと思った。映画監督のワークショップに出てお礼のメールを打つなんて何十回としてきた。でもそいつからの返信は、文面は普通でも、今までにない、気持ち悪い、異様な返信だった。こいつはヤバい。直感して、無視した。
だけどその選択ができたのは、わたしが映画に興味が無かったことが大きい。それから、当時はこれに受かったら将来安泰!というような大きな作品のヒロインオーディションを最終選考で落選した直後だったから、自分に自信があった。絶対に関わりたくないと無視することができた。でも、シチュエーションが違ったら、どうなっていたかわからない。もしも、マネージャーが「この人はいい監督だから絶対気に入られろよ!」と圧をかけてきていたら?(実際、そのようなことを言われていた。当時のマネージャーとはもう連絡はつかないが、自分とこのタレントを何某かの監督に紹介するなら、そいつの素性ぐらい徹底的に調べろよ、タレントからマージンとって給料もらってんだろ!と言いたい)
性被害は誰だって受ける可能性がある。それは、「性」がつかない犯罪だって同じなように。誰だっていつ犯罪被害者になるか分からない。悪いのは加害者で、それは加害者がどんなに自分のことを哀れっぽく語ったところで、絶対にゆるぎない。
この告発に対して、「事実ならとんでもないこと」とTwitterに書かれている方がいた。でも「事実ならとんでもないこと」って言葉の「事実なら」って必要か? 事実だから言ってんだよこっちはよ。よかったね、あなたは、事実か事実じゃないか冷静にジャッジしなきゃ!の立場にいられて。著名人が性暴力で訴えられた時、毎度見るこの文言に、毎度同じ気持ちを抱く、毎度。
「映画に罪はない、映画を公開しろ」と書いている方もいた。でも、そういう人たち全員、被害女性と同じ目に遭ってみたらいいのにな。そしたら、ことの大きさがわかると思います。可哀想なのは作品じゃないし公開中止になった俳優でもスタッフでもなくて、暴力振るわれた被害者です。その視点が無さすぎる。
被害者って、生きてる人間なんだが😅人格のない作品を擬人化して感情移入することができるのに、生きてる人間を無視し殺すことを厭わないのはなぜ?
この告発の後、2017年の#Metoo運動で、出演男優の性暴力加害が明らかになって、影響を受けた映画について考えていた。
『ゲティ家の身代金』は、キャストを変えて撮り直しした点が、本当に良かった。しかし追撮時の主演女優に対するギャランティ支払いは本当にクソなので、監督もプロデューサーも、結局、告発をスキャンダルとしてしか見てなくて、女性の人権が踏み躙られてる大事件だってことは何も分かってなかったんだな、と思った。クソ映画です。韓国映画の『神と共に』も、続編はキャストを変えたが、第一作の撮り直しをしなかったから、どんなに口(脚本)で良いこと言ってても行動がともなっていないクソ映画だと思ってます。
2020年に、今はもう無い、大阪人権博物館に行った。入り口に「差別を受けているひと」というパネルがあり、少数民族や被差別部落、ハンセン病・薬害・公害の患者と共に「犯罪被害者」と書かれていた。「犯罪被害者」の例には「性暴力の被害者」があげられていた。それを読んだ瞬間、体に稲妻が走った。
性暴力の被害って、犯罪だったんだ。
だって、暴力を受けた後、周りからは「お前が悪い」と言われた。気遣うように優しい言葉で言われた時もあったし、嘲笑された時もあったし、激怒されながら言われた時もあった。だから、わたしは性暴力の被害は、被害者が悪いから起こった自業自得なんだ、と思い込んでいた。でもそうじゃなくて、性暴力の被害はもちろん、周りの人からの飛んできた「お前が悪い」という反応や中傷は、それ自体が差別なんだ。
わたしは、今日に至るまで、わたしが悪くない犯罪の被害で、差別されてきたのだ。
熱心に展示を見ていたら博物館ボランティアのおじいさんが教えてくれた。「女性への暴力の展示も前はあった。遊郭とかDVとか性犯罪の被害とか。でも市に削除を求められた」そう残念そうに言われた時に、「ああ、そうなんだ、あれらのことって犯罪で、為政者が隠したいぐらい実態のある差別なんだ」とわかった。
わたしは、遊郭は国家ぐるみの性暴力の犯罪で、子供が見るような作品の題材にしてはいけないという当たり前のことを周知させていきたい。高校生の頃、やっぱりそれがわかってなくて、作品に遊郭を画面の華やかさの担保として出そうとしたことがあった。その時先生がダメと言ってくれて本当によかった。でも高校生の女の子が「華やかでいいよね」と思ってしまうぐらい、遊郭は国家ぐるみの犯罪だという本質を覆い隠されて、華やかさや哀れっぽさの担保としてフィクションの中に登場していたということだ。
そして、フィクションの中にどっぷり浸かってる人は、今も、遊郭やDVや性犯罪の何が問題なのかわからないのだ。
人間は思ってる以上にフィクションに作用される。(フィクションを信じることができるのがホモサピエンスの特徴だと、ユベル・ハラル氏も言っていた。フィクションを信じることができたから宗教や国家が生まれた、と)だから、フィクションの創り直しは早急の課題だ。
ようやく日本でも、当事者表象が始まりつつある。そのこともまた書きたい。
わたしは、作品を創るのにいちばん大切なことは、人権教育だと思う。わたしは文字による人権教育は比較的受けてきたが、実践的な人権教育を受けてこなかったので、自分が被害に遭った時もそれを被害と認知できず、とても苦労したし、たくさんの人を傷つけたと思う。二度と繰り返さないように、わたしを変えたい。わたしを取り巻く社会を変えたい。でもそう言うと、心無い人から嘲笑されるから、ひとまずは、「女が強姦されない世界に変えたい」って言います。
追記:石川優実さんに連帯します
2020年4月 緊急事態宣言下の桜
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