可哀想なわたしをやめろ
おひさしぶりです、よしもとみおりです。いかがお過ごしでしょうか。
このあいだ、今年の3月あたりの自分の文章を見てびっくりしてしまった。なんて「傷つきやすく可哀想な自分」を書いていたんだろう。その文章のレトリックに、書いた本人のくせに無自覚だったんだろう?
実際、当時のわたしは、傷つきやすく可哀想だったんだろう。(だからレトリックをレトリックと自覚せずに、可哀想な自分を披露する文章を書いていた。)自分を苦しめているものの輪郭を(わたしの場合は父親だった)はっきりと掴むことができなければ、すべての痛みは自己責任で、自分を責めるしかないからだ。
自分を責めることと自分を可哀想に思うのはとても似ていた。抜本的改革とは程遠かった。自分を責めることは、ぐるぐるとその場を巡り、解決へは一歩も進まないのに、何かをやってる気になる。何かをやっているのに進まないわたし。徒労、疲労、さながら殉教者、可哀想。そんな感じだった。
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いま、「メサイア・カーミラ」と「フェミキング」という二作品の上演に向けて、稽古をしている。どちらの作品も何度か通し稽古をして、だんだん作品の形がさだまってきて。ふと、わたしの役の最も大きい欲求、欲しいもの、すべての行動の目的は「愛情」なのかもと思った。
「フェミキング」の天真爛漫なプリンセス・フルビアも、「メサイア・カーミラ」の叩き上げの政治家・カサンドラも、どちらも、親からの愛情がほしかったんだ。今日、通し稽古をしながら、ふと思った。
それは戯曲に書かれていることではなく、わたし自身が物語を書くこと・演劇をつくること、そして演じることの、いちばんの理由が「親からの愛情がほしかった」からだ、と、あるタイミングでわかったからだ。
ある出来事が起こり、それにたいする解釈が定まっても、体の芯から理解するためには、時間がかかる。
わたしはもう演劇を辞める予定でいる。それはもう、両親からの愛情をもらわなくても生きていけるからだ。可哀想な自分を、劇場で不特定多数にご披露しなくてもいいからだ。フィクションを上手につくる人間の根底には少なからず「愛情が欲しい」というプリミティブな欲求があると思う。わたしにはあった。
わたしは母親と父親から、ただ愛情がほしかったのだと思う。
「フェミキング」「メサイア・カーミラ」は、最後の劇場での作品だから、大切に丁寧に演じたい。自分の根底にあった「愛されたい」という欲求を上手につかって、キャラクターを創りたい。わたしだけのキャラクターを。
そういうことってきっと楽しい。
7年前、テレビドラマのオーディションの前に友達がくれたLINEがあって、その文章は「みおりちゃんだけのみおりちゃんらしいお芝居ができますように」と締めくくられてた。その時わたしは、無理だよ。と思った。だってわたしは選ばれたいんだ、選ばれるためには正解のお芝居があって(あるはずで)でも演劇をしてきた(映像演技をしてきていない)わたしには正解がわからないんだ。そもそも自分らしいお芝居なんてしたことないし、できたこともないよ、と思った。
でも、7年経ったら、わかるようになった。自分だけの演技はある。自分だけのお芝居はある。そして、それを創っていくのは、とてもとても楽しい。
わたしは、わたしの人生のパートナーだから、楽しいことをわたしに、たくさんしてあげたい。
「メサイア・カーミラ」「フェミキング」http://tremendous.jp/femiyear2022/
『メサイア・カーミラ』
12月16日 (金)13:30/19:00
17日 (土)13:30/19:00
18日 (日)13:30/19:00
『Femiking』
12月20日 (火)19:00
21日 (水)13:30/19:00
22日 (木)19:00
23日 (金)14:00
24日 (土)13:30/19:00
25日 (日)13:30/19:00
26日 (月)15:00
よしもとみおり
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